発酵食文化の聖地「金沢大野」

発酵食醤文化の聖地「金沢大野」

糀文化は金沢の風土そのもの。

南には霊峰「白山」と加賀平野、北には「河北潟」、
西には「日本海」と、ここ大野町は歴史的には荘園時代からの
1280年以上の歴史を持つ古い港です。
ここは、白山とそこから流れる川が作った扇状地の扇端で、
古くから伏流水が湧き出ている場所でした。
この清洌で豊かな地下水が、
しょうゆ醸造のための仕込み水として使われてきました。
かつては、「ほんぬき」「もっくり」などと呼ばれた「湧水」が街道沿いにありました。

発酵食文化の聖地「金沢大野」

江戸時代に加賀藩が産業としての「しょうゆ醸造」を積極的に進めたので、
歴史的にはここ大野町の醤油産業「大野醤油」は、
日本の五大生産地の一つと言われています。
日本三名山、白山山系の豊かな伏流水と、北前船が運んだ麦や大豆、
能登の塩などを使っての醤油醸造が隆盛しました。

また金沢は加賀百万石の城下町であり、
武家文化の伝統が絢爛豪華な火が料理を育み、
その味覚を支え続けた大野の醤油もともに発達。
そして現在もなお金沢の風土が育んだフードとして、
世界の食卓を魅了しています。

発酵食文化の聖地「金沢大野」

発酵食文化の聖地「金沢大野」

金沢大野 歴史と由来。

「大野」の地名の由来は、奈良時代にまでさかのぼります。
730年(天平2年)の奈良時代の最盛期(聖武天皇)に「大野郷」の名称が記録に認められます。
(なんと、今から1,280年以上前のお話しです。)
また、室町時代には、京都のお寺が治める領地として、「大野荘」と呼ばれていたという史実があります。
ちなみに、食物史の面からは、室町時代には、「麹菌」を造る専業メーカーがあったと言われており、
そうした技術(糀菌を使って味噌や酒が醸された)が寺(=その当時は今で言う大学のような研究機関でもあった)を中心に広まったものと考えられている。
当時の味噌は、お寺を訪ねる貴族等の正客に使われる大変貴重な(極上の洒落た)食べ物だったと記述がある。
このような古文書の記述は、大野町の産土神(うぶすながみ)を祭る「大野日吉神社」の社殿や、親社の滋賀の日吉大社の史料を調べた研究者の手(成果)による。

さて、この「大野日吉神社」は、江戸時代になると、加賀百万石の加賀藩を治めた前田家の庇護を受け、
さらには、大野町内に暮らす北前船の船主達の篤い信仰心を受けて隆盛を誇った。
今でも、毎年夏(7月の第4日曜日)には年に一回の例大祭が盛大に行われている。
現在の大野町は戸数にして、約500軒。
この「大野日吉神社」の例大祭には、神輿行列が町内500軒をくまなく巡行する。
まず、奴さん(20歳の若者が行う。という毎年の役割分担になっています。)。
次に榊御輿(42歳の厄年の人たちが、厄除けののために担ぐことになっています。県外に勤めている人も、この日のために帰省します。)
その後を、神官・巫女・神社総代さん・五郎十郎(護衛の武士姿です。)・荷物(やかもち)がきて、
それから、日吉の神様(近江の日吉大社につながります。)が一年に一度だけ祭礼の時に乗られる金金ピカピカの本神輿(約1トンの重量有り)!
そして、金沢市の無形文化財でもある山王悪魔払い(高校生がお役目としてやる)、
元気な獅子舞(壮年会=30代から40代の担当)と来て、これで、総勢約300人。
昼間は、これに各町(各丁名単位)の子供曳き山や、太鼓行列が加わると、総勢約500人という、一大行例です。
500軒しかないのに、500人が参加しているお祭りって、なかなか無いわねえ!
しかも、これは、誰かに見せるためにやっているイベントではなくて、「大野日吉神社」の神様が巡行のためだけの、
町の人の町の人による町のためのお祭りであります。
ここが凄い!よね。
金沢の街中は、お武家様の文化を受け継いでいますが、この湊町・大野は、漁師と醤油屋の町です。
言わば町衆文化が綿々と今に続くところです。
大野日吉神社は、今年は1,285年祭です。
荘園時代から続く町ですから、夏祭りにかけるエネルギー(勢い)が凄い!
これを次代に伝えていくための仕組みが今もあって、コミュニティとして町衆文化の共有が成されています。